昨晩はとてもとても美しい満月でした。
冬空のキーンと澄み渡った空に青白く光る月あかりは、優しくもあり、力強くもあり、暫しの間、寒さも忘れて見とれてしまうほどに見事な美しさでした。

「霜月照清池」(そうげつ せいちを てらす)

霜月とは霜の降りる寒い夜の月。初冬の頃の月を指します。
清池とは澄み切った池。
寒い冬の日の月が澄んだ池を照らしている冬の夜を表した禅語です。

夏が終わり、秋が過ぎ、花は枯れ、葉も落ちて、真っ白な冬の世界へ入ります。雪は全てを包み込み「無」にしてしまいます。無の世界があるからこそ新たな命を与えられ、春に芽吹くことができる。
見方を変えれば、すべてを捨て去り(モノではなく自らの執着という意味)「無」の世界に入った時、初めて清らかな月あかりに照らされ、次なる境地、真の道が見えてくるのかもしれません。色々なモノが混じったままではせっかくの月明かりも透明感は得られず、ただ何となく明るいとしかならないのかもしれません。

美しい月を見ながらそんなことを考えていた時、奇しくも知人からこんなメッセージが届きました。
「手放すところは手放していかないと、なかなか次のステージにはいけないね」

ある分野では日本最高峰の実績と地位を築いた彼だからこそ、いろいろなコトを手放し捨てていくことの難しさを人一倍よく知っており、更に上を目指すために一層の努力をしていることが伺い知れました。
私たち人間は、執着を捨てることによって、よりきらめき輝くことができるのでしょう。
何も手放すことができず執着に捉われてばかりでは、曇り濁った光しか放つことはできないのでしょう。

ひと際美しい今年最後得るの満月を見つめながら、「生きるとは捨てる修行なのかもしれない」と、禅の世界に思いを巡らしたのでした。

 

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