昨日に引き続き古川老師のお話からです。
「動中の修行は静中に勝ること百千萬倍」
(多くは修行ではなく工夫と言われているようですが、古川老師は修行と仰っていました)
動中とは労働のこと。静中とは坐禅のこと。
労働を行っている時の方が坐禅を行っている時よりも何倍もの多くのモノを得られるという意味だそうです。
他の宗教が何かによって救われることだとしたら、禅は救われるのでは自ら「気づく」宗教なのだそうです。誰かに救われるのではなく、自分で気づくことが本当の救いであると考えるのだそうです。そのため禅は労働(作務)をとても重視しています。それは労働が日常であるからであり、その中にこそ気づきがあると考えます。実際、修行僧の時にも坐禅中に何かを得たお坊様はあまりいらっしゃらず、皆さん、何らかの作務を行っているとき、例えば庭の落ち葉を掃き集めていて小石が飛んだ時、雑巾がけをしているときなど、日常の生活の中で気づきやそのヒントを得ているということでした。
社会人で言うと、会社に言われた必須研修を受講しているときに「これだ!」と気づきを得ることは少なく、日常業務を行っている中での気づきや学びの方が本当は圧倒的に多い、と言い換えることができるかもしれません。
そう言えば、私自身が「変わりたい!」「こうなりたい!」と思ったのも研修中ではなく、お客様と話をしているその瞬間だったり、メンバーとの雑談の時だったり。決して頭でいろいろ考えている時ではなく、まさに「日常」の中においてでした。
だからと言って坐禅(研修)が不要かと言うとそんなことはありません。社会と向き合っている労働(作務)の時間に対して、ただひたすら自分自身を見つめる(見つめ直す)時間を意識的に作ることは、その瞬間何も得られなかったとしても、その後の気づきのためには大切なのかもしれません。
動が7、静が3くらいの割合でうまくローテションしながら行っていくのが自らの「気づき」を得るために良いのではと老師はおっしゃっていました。
すでに3か月になりますが、私は毎日、自分の部屋を雑巾がけしています。流行りのなんとかワイパーでさっさと仕上げるのではなく、雑巾を固く絞って膝をついて拭きあげるのです。併せて玄関ドアの内外を拭き、玄関たたきも雑巾がけします。毎日毎日、何があっても欠かさずに3か月が経ちました。
実は、この一見単純作業とも思える雑巾がけの最中に、色々な気づきやヒントを得ることが沢山ありました。
まさに「動中の修行は静中に勝ること百千萬倍」だったのかもしれません。
人間行き詰ったり思い悩んだりすると、行動がストップしてしまいがちです。
しかしそんな時こそ何らかの動を行うことで次への扉が開くきっかけを作れるのかもしれません。