「お前たちは衣掛飯嚢(えかはんのう)じゃのう」
古川老大師が修行僧の頃、ご住職からよく言われた言葉だそうです。
衣掛(えか)とは衣文掛け(若い方は衣文掛けも「?」でしょうか? ハンガーのことです)
飯嚢(はんのう)とはご飯を入れる袋の事。
雲水であってもお坊様の衣を身にまとい、どこの寺の者かがわかる飯袋を首から下げていると、托鉢をすればお金も入れてくれるし話も聞いてくれる。
では、もし衣も飯袋もなかったらどうなのか?
つまり、「お前たちは中身がないのう・・・」とご住職からよく言われていたというお話です。
笑いながらも身につまされるお話です。
大手旅行会社を辞めた後、当時はまだ殆ど知る人がいないE社に転職し、日本にはまだ馴染みのないサービス(無形商材)を営業部長として販売していた時、まずお客様に話を聞いてもらうためには会社名でもサービス内容でも、それこそ実績でもなく、「私は何者か」と言うところから始まりました。本当に大変だったことを覚えています。
それまで「J社の尾藤です」と言えばそれだけで土俵に乗ることができていたのに、全く相手にされない。
裏を返せばこの頃は、営業に役立つ衣も飯袋もなかったので、中身で勝負せざるを得なかったのです。しかし、何もなかったからこそ、徹底的に自分を見つめ、自分という一人の人間として勝負できたのかもしれません。
R社時代の私は衣も飯袋もふんだんにありましたし、少し自分を見失っていた感があります。つまり、まさに衣掛飯嚢状態だったのだと今は思うのですが、当時はその事に全く気付いていませんでした。R社を退職することになり、あと数日で最終日と言う時にメンバーのKちゃんに衛生面での注意をすると、知らん顔をされてしまいました。マネージャーという肩書がなくなる人の話を聞くつもりはないとそっぽを向かれた瞬間です。それまで私は肩書だけで彼女と向かい合っていて、中身では向き合えていなかったのかとかなり落ち込んだ覚えがあります。
好むと好まざるとに関わらず、ビジネスにおいては肩書とか実績とか資格とか、そういうものが当たり前にくっついてきます。大企業や有名企業に所属している場合には、その会社に所属しているというだけで(名刺を持っているだけで)ブランドになってしまいます。
いらない!と言ってもそれは仕方のないこと。大切なことは、それらに甘えてしまうのではなく、あくまでの「自分の中身」をどう保つかです。
転職後、誰も知らない会社でそれなりの成果が残せたのは、「〇〇会社の〇〇というサービスを扱っている私」ではなく、私個人としてお客様と誠心誠意向き合えたからなのだと思っています。
もし以前の私が自分の内面をしっかりと見つめ、マネージャーとメンバーではなく、個人と個人という関係でチームのメンバーと接していたならば、退職時のKちゃんの言動も違っていたかもしれません。
今は経営者、講師、ファシリテーターなどの肩書や仕事にまつわる資格、実績が私にはあります。それらに溺れないようにするために、そういうものが全く役に立たない世界(私で言えば茶道や禅修行、論語塾など)に身を置き、常に人生における一兵卒として自分をしっかり見つめています。
「いつまでたってもあなたは衣掛飯嚢ですねぇ」とかつてのメンバーに笑われないよう、しっかり中身を整えたいと思っています。