誰だって変わることができる

批判の矛先

自信を持ってKさんが作成した社内向けプレゼン資料。応援してくれる上司Mさんの後押しもあり、社内の企画会議で堂々と発表したところ、その直後から批判的な噂が職場のあちらこちらから聞かれるようになりました。
おまけに固有名詞の記載はないものの、見る人が見ればそれと分かるSNS投稿でのバッシング。
すっかり落ち込んでしまい、自分の人としての未熟さがこんな事態を招いたのだと、ひどく自分を責めてしまったKさんが、Mさんの勧めで私のところに相談にいらっしゃいました。

Kさんは一方的に自分を責めており、また、自信を無くしてしまっていました。
「会社を良くしたい一心で創った企画なんです。でも、『あいつ変わったよな』とか『点取り虫』みたいに言われてます。これまで仲間だと思っていた人も離れていった。Mさんは気にするなといってくれるけど、明らかに空気が違うんです。誤解もたくさんあるみたいです。企画会議に参加していた部長達から社内にどんな風に伝わってしまったのか・・・。説明の機会をもらえるのなら、僕は一人一人にきちんと説明したい。でも、そんな状況じゃないんです。結局は、僕の人格がそこまで立派じゃないから受け入れてもらえないという事なんでしょうね。もっと人としての徳を積まないければいけないんです・・・・」

見事なまでに自分を責めてしまっているKさん。
似たり寄ったりの経験がある私は、Kさんの気持ちに同情しながらも、すこし視点を変える質問をしてみました。

「Kさんの言う、批判やバッシングですが、それらはどこに向けられているんですか?具体的にどんな風に言われているのか、良かったら差支えのない範囲で教えてもらえますか?」

するとKさんは堰を切ったように、次から次へと彼へ向けられたネガティブワードを口にし始めました。

生意気だ。現場を知らないからそんなこと言えるんだ。素直そうなふりして役員に取り入ってるんじゃないか。等々

どんなに根掘り葉掘り私が突っ込んでも、Kさんのプレゼン内容に対する具体的かつ論理的反対意見や否定的意見というものは殆どなく、言うなれば、感情的な文句と取れるような取るに足りないものばかりでした。
しかし、この取るに足らないモノが曲者で、グサグザと心をえぐり傷つけるのです。

「そうですね。Kさんの提案に対してのオブジェクション!というよりは、もっと別物ばかりですね。もし、今沢山ある批判の矛先が提案そのものに向けられていたら、Kさん自身はどう感じているでしょうか?」

すると、Kさんは少し考えた上で言いました。
「意見や考えが人によって違うことは普通ですし、僕の提案が完璧だと思っているわけではないので、それらに対しての反論はあって当然だと思います。また、そういう反対意見が出てくることで、僕のと併せて喧々諤々検討していき、いいものを創り上げていければいいと思います。」

「本当にその通りですね。ということは、Kさんの落ち込み理由は、提案に対しての批判ではなく、批判の矛先がそれ以外のところに向けられている。それ以外の表現をされている、という理解で良いですか?」

「はい。その通りです。」

「落ち着いて考えてみて下さいね。Kさんにネガティブな発信をしている人たちは、Kさんの提案をちゃんと理解しての上のことでしょうか?」

「いいえ。多分、理解してもらえていないと、書き込みから推測してそう思います。」

「そうなんですね。では理解していないにもかかわらず、彼らが一生懸命ネガティブキャンペーンを行っている理由はどこにあると考えますか?勝手な推測で構わないので、思いつくことを何でも言ってみて下さい。」

「・・・・。僕がキライ。僕が今回のプレゼンで一定の評価を受けたことが気に入らない。出る杭は売ってやれ。」
「それから?他にはどうですか?」
「プレゼン内容実施になったら、ますます大変になるのに何てこと言ってくれんだ。自分達はこのまま平穏無事でいたいんだ。搔き乱すなよ。」
「へぇ~。面白いですね。」
「・・・・・」
「今のを聞いていると、Kさんへの好き嫌いもあるかもしれませんが、単にひがみややっかみ、自分の平和領域を侵されたくない我儘に私には聞こえました。Kさんみたいに会社の将来を思っての批判ではないように思うのですが、どうでしょうか。」
「それはらそうかもしれません。でも・・・・」
「でも?」
「やはり、いろいろ言われるのは辛いです。」
「そうですね。嫌ですよね。出来れは避けたいですよね。」
「はい。」

それから私は、自分が起業できなかった理由とその障壁を乗り越えた時の話をKさんにしました。

人前に出る、最前線に出るという事は、良いことも真っ先に受け取るが、悪いこと、批判の矢面にも自分自身がその最前線に立つという事。
意見を発信するという事も同じ。だから経営トップになって自らの意見を自らの責任で発する勇気が持てるまでは、起業など私の辞書にはあり得なかったということ。それはSNS等での考えの発信にも同じことが言える。だから、起業後もブログを書き続けることには勇気が必要だった。

しかし、万人から受け入れられる意見はない。どんなに人として素晴らしい人格者であっても悪く言う人は必ず出てくる。完璧を求めていては何もできない。
批判が嫌なら口をつぐみ行動を控える。しかし、成し遂げたいことや思いがあるのなら、批判を怖れるのではなく、また、批判に一喜一憂するのでもなく、その矛先がどこに向いているのかをしっかりと見極め、論理的対話が可能な批判には謙虚に向き合うが、それ以外の感情的非論理的なものは取り合わないルールを自分自身で決めた。

批判の矛先をしっかりと見極めることができるようになったことで、精神的に随分と楽になった。
もちろん、感情的非論理的と思われる批判の中に、自分の人としてのあり方を指摘するものがあり、素直に耳を傾けなければならない場合もある。しかし、それらが過去のものであり過ぎたことを蒸し返すような内容であれば取り合わない。というか気にしない。何故なら、それらを踏まえて今の1ミリでも成長した自分がいるはずだから。過去に執着することよりも、過去の失敗を活かして今の自分、未来の自分が少しでも人として成長していくことの方が大切だから。
また、人格を否定するような意見も取り合わない。それは私の個性であり、否定されるものではないからだ。
もし人としてのあり方においての正すべき指摘が、現在の自分にも当てはまることであれば、真摯に耳を傾け姿勢を正すことに努める。
多くの場合は、現在の人ととしてのあり方に対してに何か忠告をしてくれる人は、SNSや噂、批判をという形ではなく、指摘や諭しということが多い。それらはありがたく素直に耳を傾ける。

私の話を聞き終えて、Kさんは暫く考え込んでいましたが、会社を良くしたいとの思いに一点の曇りもなく、意見を発信し行動を周囲に促していくという事は、反対意見を受け止め、批判を受け流す勇気と覚悟が必要だと、本当は分かっていたのにそこから逃げていた自分に気がついたと語ってくれました。また、自分が徳を積んでいないというのは逃げ口上だったとも。
もちろん、人として成長していくことは大切で怠ることはできないが、自分の考えを堂々と発信するにはただ意見を持っているだけでなく、そこから返ってくるものをもしっかりと受け止める大きな器を持った人間になっていきたいとのことでした。

できることなら誰しも自分に対してネガティブな話は耳にしたくありません。
しかし、それが避けることができないのであれば、批判の矛先がどこを向いているのかをしっかりと見極め、受け止めるべきものか、受け流す又は無視してしまうものかの選別を行うことで、自らの気持ちをコントロールしやすくなるのだと思います。

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