毎日毎日、千葉に対して祈る日々。
発せられる情報が良いものに変わるのではなく、事態が悪化していくことに、「絶望を感じる」という被災者の方々に対して、ただ祈るしかできません。
電力の復旧に「見通しが甘かった」というコメントが成されていますが、見通しとは果たしてどのレベルで行うのが適切だったのかを考えてしまいます。
イギリスのEU離脱で、合意なき離脱を行った場合の起こりうる事態についてイギリス政府関係省庁の発表がありました。
あまりにも悲惨な状況予測に私も耳を疑いましたが、省庁曰く「これが起こるということではなく、あくまでも最悪の事態を想定してのものだ」との事でした。
折しも同時期に発表された楽観的見通しと最悪の見通し。
最悪の見通しを発表することは実に勇気が必要ですし、そもそもその事実に目を背けたくて発表する以前にそこまで考えない、そこまではならないだろうと予測の範囲から除外してしまうこともあるでしょう。
しかし、ネガティブを想定するのに中途半端であることほど罪なことはないと思います。
最悪を想定できなければ、津波警報とか緊急地震速報などは出せません。
仮に予測が外れていても、そこまでひどくなかったとしても、「そうでなくて良かったね」と受け入れることができる度量の大きさを予測を受ける側も持ちたいものです。
自然災害等に限らず、ビジネスにおいても中途半端な予測は罪であり為されるべきではありません。
大昔の話ですが、年度末が近くなり、予算達成がギリギリのところで「あとどれくらい売り上げを伸ばせるか」とチームミーティングでそれぞれが自己申告を行った際、私は楽観的予測をリーダーに申告し、結果、チームに大きな迷惑をかけたことがあります。
見込みの精度が甘かったと言えばそれまでですが、それを口に出すときの責任感の欠如もあったと今では思っており、当時のあの失敗を思い出すと今でもチクリと胸が痛みます。
中途半端ではなく、最悪を予測して受け入れ、それに対しての心構えと準備する力があって初めて、あらゆる事柄に負けない、変化に負けず変化を生み出すことができるサスティナブルな状態を作ることができるのでしょう。
最悪を予測することは勇気が必要です。
しかしリーダーは常に、それを受け入れる度量と心構えを怠らずにいたいものです。