連絡がないまま数週間お休みしてしまっているお稽古事のお友達に、先生からの伝言と必要な連絡事項を伝えるため電話をしました。
メールで伝えることも考えましたが、急に無連絡になってしまい、もしかしたら体調でも崩しているのかもしれない、ご家族に何かあったのかもしれないと心配もあり、電話にしました。
10コール近く鳴り、もう切ろうかと諦めかけた時に、「もしもし。」と応答がありました。その声は全くの無感情で、いつもの彼女とは別のモノでした。
私が連絡事項を話しているその間、聞こえてくるのは無感情な「はい」という言葉のみ。大きな声でも小さな声でもなく、ただ「はい」と言うのみ。そこからは全く何も読み取れません。
伝えるべきことを伝えた後、最後に言いました。
「連絡なかったけど、具合でも悪かったの?」
すると、これまでの様子とは打って変わって興奮した様子の大きな声で彼女はこう言いました。
「用があって都合が悪かっただけです。先生に連絡したけど通じなかったんです!」
彼女の声からは、「防御」と「保身」の気持ちが溢れ出ていました。
連絡しなかった、またはできなかったのは彼女なりの理由がきっとあったのでしょう。しかし、彼女が取った行動は好ましいものではなかっとことも、心の中では彼女自身が一番よく分かっていたのでしょう。それでもなかなか素直になれない。自分の中の理由が勝ってしまい、無感情な「はい」で自分を防御せざるを得なかったのだろうと推察しました。
そんな彼女を攻め立てる、または色々と聞きだしたところで、本人が既に気づいているのであれば、それは必要がないことと思いました。
いきなりの興奮と彼女の矛盾した返答に私も言いたいことはありましたが、それ以上はやめました。
「じゃあ、次は会えるね。またね。」と言うと、ようやくいつもの声が「ありがとうございました」と言いました。明るく温かで落ち着きのあるいつもの彼女の声でした。
いつも明るく朗らかな人が無感情な言葉を発した時、こちらは思いっきり面食らってしまいます。
だからと言って、根掘り葉掘り色々と聞くことが良いとは限りません。
無感情な言葉を発するということは、一時的であるにせよ、こちらに対して心を閉ざしているからです。
何かを言うことで相手の心に響くことはあるでしょう。
しかし、何も言わないことで相手に感じてもらえることもあるのだと思います。