「履修登録のシステムがビジーで全然つながらない。
土曜日は事務局も閉まってるし、来週クレーム入れる!」
新大学生とのそんな会話に、私はつい、
「大学って“サービスを受ける場所”なの?」と返してしまった。
時間をずらせば解決するのでは?という思いと、
社会に出たときに“自分でなんとかする力”がないと、きっと苦労するという危機感があったからだ。
でも、後からある人がこう言った。
「その学生の感覚、わかる。お金を払っている以上、快適であるべき。
だけど、やることはやる。それが“対等”ってことじゃない?」
この「対等」という感覚に、ハッとさせられた。
若者の中には、「学ばせてもらう」という受け身の姿勢ではなく、
「対価を払っている以上、対等な立場で当然。
期待すべきことは期待するし、やるべきことはやる」
という、ある意味で合理的な考え方が浸透している。
それは、企業に入ってくる若手社員にも見られる傾向だ。
「納得できない業務は受け入れないが、指示されたこと自体はちゃんとやる」
「与えられた環境が悪ければ、それは改善対象であって、我慢するものではない」
かつての「教わる側=下、教える側=上」というヒエラルキーとは違い、
「フラットで、かつ目的志向」な関係性を求めているのが、今の若者像の一つなのかもしれない。
一方で、私たち“育てる側”は、ついこう思ってしまう。
「社会はそんなに甘くない」
「文句を言う前に自分で工夫してみてほしい」
「理不尽にも耐える力を身につけてほしい」
これは経験からくる切実な願いだ。
だが、それが「一方的な押しつけ」になってしまえば、今の若者とはズレていく一方でもある。
戦略人事として感じるのは、この“視点のズレ”をつなぐことが、育成設計そのものだということ。
若者の「ユーザー視点(対等・合理的)」を否定するのではなく、
そこにどう「学びの主体性」や「困難を自ら解決する力」を織り込んでいくか。
単に“甘やかす”のでも、“突き放す”のでもなく、
「フラットな関係であっても、成長を後押しする介入」はできるはず。
たとえば、「快適でないと行動しない」のではなく、
「快適でなくても工夫して進むことが、最終的に自分の武器になる」と伝える仕組み。
そして、困難な状況をあえて設定しつつ、そこから自ら抜け出すプロセスを“支援する”関わり。
若者が変わったのではない。
価値観が多様になっただけ。
私たち“大人側”が持っている「教えるという前提」や「上から目線」をちょっと緩めるだけで、
若者たちは案外、驚くほどしなやかに成長していく。
そんなことを、この春の一言から改めて感じた。
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